川場村に家を建てる

大人になっても家に籠ることが嫌いで、外に出たがる習性は変わらなかった。
若い時は登山にもよく行ったが、時間がない時は、荒川中流部の土手や埼玉県
の名栗川の上流に出かけた。
そんな中で群馬県の武尊山系によく出かけるようになった。
その山は、少しでも入るとブナの樹々が生い茂り、自然が豊かで、魅力あふれる
場所であった。
何十回か通ううちにどうしても山麓の村である川場村に拠点が欲しくなった。
川場村は当時から(1975年頃)農村環境が維持されており、後ろに武尊山を
配して景観的にも非常に魅力的であった。
しかし、当時役場に行っても都会からの、訳のわからない人に土地を貸して
くれるなどあり得なかった。
よく泊まっていた民宿の主にその旨を話すと、2、3の土地の有力者を紹介してくれた。
いろいろな場所を紹介され、見て行くうちに村全体が望める、集落から少し離れた
谷戸地が気に入った。
その場所は使われなくなった桑の木が生い茂っていたものの、日当たりの良い
緩やかな南斜面の土地であった。
ただ使われなくなっていた農地であったため、宅地として使用するための許可を
取るのが大変であった。
村の農業委員会で農振解除を受けなければならないからだ。
その申請から実際の解除まで3年近くかかった。

 1993年冬にようやく家が完成した。新築の家には思わぬ出迎えがあった。
2階の窓を開けていたところ、なんと、部屋の中にキセキレイが入っているではないか。
そのまま開けたままにして外に飛び立つのを待っていても、部屋の中を飛び回っているだけで出て行かない。
そのままにする訳もいかないので、手で捕まえたのだが、見た目以上にか細く小さな体で、本当にかわいらしかった。
何とも言えないハッピーな気持ちになったことを今更ながら思い出す。
 その年の年末から年越しをしたのだが、妻が過労で倒れた。
寒さのためもあったかもしれないが、とにかく慣れない山暮らしは相当体力を消耗した。
朝は零下5度以上になる日も多く、薪ストーブをたいても熱を放出するまで時間がかかり、東京からの身に寒さはこたえた。
夜は想像以上に真っ暗で、その暗さに対する恐怖で枕元に木刀を置いたほどだった。
夜、聞こえる音といえば家の横を流れる沢の音位いで、たまにやってくる地元の車の音にびっくりしたものだ。
 いろいろ苦労もあったが、そのすべてが新鮮であった。
都会では想像することすらできないことだが、人里離れた環境では、感性的な緊張感と新鮮な歓びは常にあったように思われる。

川場村の家

2021年9月 川場の家

川場村での様々な体験を、テーマ毎に以下書いていくことにする

半端ない雪害

 新雪が積もった夜明けの景色は本当に美しく、心が洗われる思いになる。
また新雪でのウサギなど足跡を見るのも楽しい。一方で、雪には様々な苦労をした。
車は4輪駆動でスタッドレスを履いてはいたが、積雪が30cm程度の新雪では、
坂道でスタックし、どうにも動かくなり、雪をどけて動けるまで1時間以上かかった
ことも数回あった。
また家のあるところは集落から500m以上離れており、村は除雪をしてくれない。
多量の降雪が予想される時は、自分の車を集落まで走らせ、雪面にワダチをつくった。
時には夜中に何回も車を走らせなければならなかったこともある。
また、2月頃は積雪が50cm以上になることも多く、当然家までは車では到達できなくなり、 最も近い家の空き地に駐車させて頂くことなる。
リュックを背負い、カンジキをつけて家にたどり着いたことも1回や2回ではなく、まるで冬山登山の趣であった。
 あれは2月頃の雪の多いときだったか、雪が屋根を滑り落ちる力でストーブの煙突が
地面まで飛ばされ、空いた穴から雪解け水が部屋の床に落ちていた。
ぽっかり空いた煙突の穴から、空を望めるのは面白い体験ではあったが、そのまま東京の家にUターンせざるを得なかった。
水でブナ材の床が膨張したため、30cm程膨れ上がってしまった。
当然床を張り替えなければならなくなった。
また、積雪が1.3m位あったとき、屋根に雪留めがついていたため、雪が落ちなく、 溜まった雪の重みで屋根のひさしが折れ曲がったこともあった。
 若い時は雪による苦労もやり過ごせたが、70歳近くなるとさすがに身体に堪えるようになった。
そのため12月中旬から3月上旬までは川場に行くことを止めた。
冬季に寒い処へ行って、石油や電気を大量に消費するのもエコではないということを、自覚したこともあるが。

川場村の雪

2008年12月30日大雪の朝