今思い、考えること
村の自然の中に身を置くことの意義
これまで、川場村に通いつめ、その時々の様々な体験を書いてきた。
そのような体験で最も痛烈に感じることは、都市からやって来て圧倒
するほどの自然環境に身を置くことが、私という人間に大きな影響を
及ぼしたということである。
都市生活では意図された情報に拘束されるが、川場では情報のほとんど
が自然の現象である。
野生の動植物による全く予知もできないような営み、大雨、大雪、
防風等による天候の急変等、様々である。
時にはどう対処して良いかわからないようなことも多く、それが新鮮であり、
面白さでもある。
キノコ採りでは自分の勘を頼りに森を自由に歩き回る。
どこに行こうと自由である。
そこでは野生動物の気配などを感じながら感性も研ぎ澄まされる。
自然の圧倒する世界では、当然恐怖も付きまとう。その恐怖と自由が混ぜ
こぜになって、感覚の鋭敏化、活性化も誘起される。
以上のことから、自然好きな人には、できれば定期的に同じ自然に身を置く
ことを進めたい。
自然のあり様や営みが、同じ場所で何回も経験しているうちにより鮮明になり、
自然の遷移、季節の移ろいも身体で感じられるからだ。
周りの自然が自分と同化し、親しい仲間のように感じられるのも、
通っているからこそである。
今、人の価値観は知らず知らずのうち、人工的で操作された情報、
物語で形成され、一つの方向に向かって束のように固まっている人が多く
なっているのではないだろうか。
それに引き換え、自然の中では一定の価値観、固定観念等は全く無力となる。
そこでは、何でも在りの世界をただ受け止めるしかないからだ。
例えば自然の森では生と死が混然一体となった世界であるが、より死の気配が
濃密に感じられる。
自然の遷移が進んだ森では倒木も目立ち、当然その場所にはキノコが生え、
時間の経過で土に還る循環が生じる訳だが、その現実を見ると、まさに死の
世界であり、永遠の世界なのだ。
そのような中で立ち現れる自然そのものが絶対なのであり、ただ自分は感受する
のみで、己の固定化された価値観などはいつの間にか消失する。
その絶対的な生命及び死の世界を全身で受け止め、研ぎ澄まされた感覚に身を委ね、
行動することが自由の境地なのではないだろうか。
私は、自由を求めて川場に通っているのかもしれない。
圧倒的な植物の生命力
これも都会ではほとんど感じることは無いが、圧倒的な植物世界では植物が
まるで意志を持っているような感覚に陥ることがある。
家の前の庭では草本のせめぎあいが激しいが、特にイネ科の植物群落の広がりが
大きく、その群落の力強さを実感する。
また、去年まであった植物が消え、新たな植物の群落を造る。
5月~6月にかけては、我先に光を獲得すべく腰位まであっという間に伸びる。
6月に草刈りをしても、9月には同じように伸びてくる。
この力強さは圧倒的である。
樹木に関しても同様だ。家を建てたころは、眼下に田んぼが一面に広がって
いるのが見えたが、この頃は田んぼどころか、赤城山もほんの少し見える程度
となった。
周囲の樹木の旺盛な成長が視界を遮ったためである。
庭の隅にあるコナラも1m程度であったのが、見上げるような立派な樹になった。
このまま放置すれば、植物によって圧倒され、圧し潰されてしまう程の迫力を感じる。
ただ、それぞれの植物も、根の周囲に共生する微生物を如何に獲得するか、
そのせめぎあいで勝った植物が反映できると想っている。
このため、群落が旺盛な広がりをみせているのは、根がそれだけの微生物を獲得できて
いる証なのだろう。
そう捉えれば、植物の多様性、動物の多様性は、土壌に棲む目には見えない微生物の
多様性を表しているとみることができる。
豊かな植物環境とは、即豊かな土壌の微生物環境に他ならない。
ということで、あらゆる生物はウイルスを始めとする微生物に支配されているという
結論に至る。
川場で植物が生い茂る風景を眺めていると、ふとそんな考えに取り付かれる。
2021年9月庭からの川場村の写真
樹々が成長し奥の赤城山がかなり見えにくくなった
2000年当時の写真 赤城山、下の田畑も見渡せた
気候変動について
地球温暖化と言われて久しいが、この言葉は生ぬるいのではないか。
“温暖”という言葉には、心地よさを感じ、違和感を持つのは私だけではないだろう。
温暖化どころか、熱帯化或いは灼熱化とでも表現したくなる気候変動ではないのか。
表現がきついと言うなら、地球温室化という表現が相応しいと思う。
冬季の積雪では20~30年前では2月頃では1.5m程度あったものが、最近は数十cm程度
ではないだろうか。
また、この“温室化”は植物にはっきり表れるとみている。
以前は林道奥に当たり前に生えていた、北方系のエイザンスミレは全く姿を消し、
家の前に大きな群落があったエゾタンポポは、午後に日影になる家の横にひっそりと
命を繋いでいる。
特に驚いたのは、ミツバアケビである。
2020年には家の近くに立派な蔓があったのが、2021年それが突然消えたのだ。
その他の何ヶ所でも全く見当たらなくなった。実生の小さな蔓はあるのだが、
大きくなった蔓は無くなってしまった。
これを“温室化”のためだけにするのは無理があるかもしれないが、比較的冷涼な
気候を好む植物には厳しい環境になっているのではないだろうか。
他にも温暖化の影響を受けた植物は気が付かないだけで、非常に多いと考えている。
マスコミでも頻繁に伝えられているが、例えば冷涼なカナダで気温50℃近くを記録
したこと、シベリアで永久凍土が溶解していること、日本でいえば、台風の大型化、
頻繁に発生する線状降水帯による甚大な被害等、その影響が深刻化している。
気候変動は予告なしに唐突にやってくるのだ。
地球が数十億年かけて生成した化石燃料を、人間が快適性、利便性を追い求め、
際限のない欲望が後押しし、たかだか数百年でその多くを使った。
それにより、二酸化炭素或いは二酸化窒素をまき散らした結果なのだ。
人間一人当たりのエネルギー消費量はそれこそ膨大となっている。
この根本的な問題に向き合わなければ、二酸化炭素排出削減を実施しても、
焼け石に水ではないのか。
地球自然の緩衝能力を超え、今後雪崩を打ってその悪影響が甚大になるのではないか。
人間の近未来を考えるとき、私の心にはひたひたと絶望感が押し寄せてきている。
困難な道のりと考えるが、自然の営みに向き合い、感知し、その営みの中でしか
生きられないと納得し、古代からの人々の生活の知恵も取り入れ、皆がエネルギー消費を
抑制していけば、一条の光が差し込んで来るかもしれない。